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歴史

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日本刀の歴史

姿の変遷直刀から反りのある湾刀(わんとう)へ移行したのは平安中期以降と考えられ、一般的に10世紀前半の平将門と藤原純友の乱(承平・天慶の乱)以降とみられています。それ以前のものは上古刀と呼ばれ、大陸より日本にもたらされた大陸様式の直刀です。
平安中期以降に出現した日本刀は、その時代の戦闘様式の変遷と共に大きく変化して、合戦のたびに実用的効果をあげるために改良工夫がなされてきました。
また日本刀の制作は、大和国・備前国・山城国・相模国・美濃国の五ヶ国を中心として、各地に名工が輩出したので、明治以降これを「五ヶ伝」と呼ぶようになります。江戸時代の新刀期になると、これに飽き足らずに、自ら学んだ伝法に他の伝法を合わせて新しい技法を誕生させる者も各地に現れ、その技法は現代刀にも受け継がれていきます。

上古刀(じょうことう)

上古刀は反りのない直刀で、平造(ひらづくり)と切刃造(きりはづくり)がほとんどです。この時代の刀剣の資料としては、古墳から発掘されるものと、奈良時代の正倉院御物の刀剣類があります。

平安時代後期~鎌倉時代初期

平安時代後期から、いま私たちが普通に見る太刀、すなわち反りのある鎬造(しのぎづくり)のものがあらわれました。太刀は総じて細身で、茎(なかご)から腰元のあたりで強く反り、元幅に比べて先幅が著しく細くなり、小鋒(こきっさき=鋒が小さめなこと)になります。これが、腰反りと呼ばれるものです。中程から先にいくと、棟(むね)から押さえられたような感じで反りが伏せられています。

鎌倉時代中期

肉置武士全盛の鎌倉時代には、いかにも豪壮な太刀姿となります。元と先の身幅の差が少なく(先にいっても細くならず)、反りは腰反りですが、中程から先に行ってもある程度反りが加わり、中鋒が詰まって猪首風(いくびふう)となります。刃文は華麗な丁子乱(ちょうじみだれ)が流行しました。

鎌倉時代後期

鎌倉時代中期とほぼ同様に鋒が少し延びたものと、反面やや細身で、平安時代末期や鎌倉時代初期のものと見粉う姿もありますが、先にいっても伏しごころはなく、逆に反りが加わっています。刃文は互(ぐ)の目あるいは湾(のた)れと称するものが出始めます。相模国の五郎入道正宗が沸(にえ)の作風を完成したと言われています。

南北朝時代

この時代には身幅広く、刃長3尺(90.9cm)に余る長大な太刀が作られ、短刀も大振な姿のものとなってきます。いずれも重さを軽減すべく重ねを薄く造り込んでいます。また樋(ひ)を掻(か)いたもの(=刀身に沿ってみぞを彫ったもの)が多くなっています。また後の時代(主に天正や慶長年間)に大磨上(おおすりあげ=茎から短く詰めること)となって、無銘の打刀(うちがたな)に仕立てかえられたものが多くあります。

室町時代前期

室町時代前期は鎌倉時代初期の姿にならった作風を示しています。刃長は2尺4、5寸(72.7cm~75.8cm)でやや身幅が細く、反りがつき、中鋒で一見鎌倉時代のものと見紛いますが、わずかに先反りがつくのが特色です。

室町時代後期

室町時代後期になると、戦闘様式は徒歩の集団戦になり、刃を上にして腰帯に指す打刀が多くなります。応仁・文明の乱以後、各地に戦乱が起こり、数打物(かずうちもの=既製品)が出まわりました。特に注文によって念入りに鍛えたものを注文打(ちゅうもんうち)と呼んで区別しています。備前(岡山県)と美濃(岐阜県)が二大生産地です。
刀は寸法が短くなり、多くは2尺1寸(63.6cm)前後で、先反りが強くつきます。また茎は片手打ちに適すように短く作られています。

安土・桃山時代

刀剣史上、慶長(1596~1614)時代以前のものを古刀と呼び、以後のものを新刀と呼びます。安土・桃山時代になると刀鍛冶は京、江戸を始め、新勢力の諸大名の城下町を中心として集まり、また交通の発達は鉄資材の交流を促し、外国製の鉄すなわち南蛮鉄も使用されるようになりました。
刀の姿は南北朝時代の太刀を大磨上にした形によく似ています。広い身幅で中鋒が延びるものや大鋒もあり、重ねは厚くなります。刃長は2尺4寸、5寸(72.7cm~75.8cm)前後のものが多くなっています。

江戸時代(前期)

江戸時代前期の姿は元幅に比べて先身幅が狭まり、反りが目立って浅く、中鋒つまりごころの形状です。刃長は2尺3寸(69.7cm)前後のものが多くなっています。この独特の姿はとくに寛文・延宝年間を中心とした頃に多く作られていることから、これを寛文新刀と呼んでいます。

江戸時代(元禄期)

貞享・元禄を中心とした頃、つまり寛文新刀から新々刀(しんしんとう)へ移行する過渡期の姿です。天下泰平となり、刃文にも斬新(ざんしん)華麗なものが現れました。寛文新刀よりは、反りがやや深くなっています。

幕末期

文化・文政以後のものを新々刀と呼んでいます。姿は身幅は広く、元幅と先幅のひらきが少なく、長寸(2尺5、6寸)で反りの浅い大鋒の造り込みとなり、重ねは厚く豪壮となります。水心子正秀や南海太郎朝尊(ともたか)は復古刀を唱え、水心子の門には大慶直胤がいます。源清麿も相州伝の作風の復古を志し、その技量は高く評価されました。

明治以後

明治9年の廃刀令から現在までの刀剣を現代刀と呼んでいます。廃刀令が出ると刀工は職を失いましたが、明治39(1906)年に至って月山貞一、宮本包則が帝室技芸員に任命され、鍛刀の技術は保護されました。明治・大正・昭和・平成と、鍛錬技法は今日まで続いています。現代刀においては、古刀・新刀を問わず、あらゆる時代の著名刀工の作風を模写しており、特に鎌倉時代の太刀を写したものが多く作られています。